最近、証明書用の写真を撮りにいきましたの。必要があって。当り前ですわね、必要がなければ、誰が、あんなモノ、お金だしてまで、撮りにいきますか、そう思いませんか? えっ、思わない? アンタのような人とは友達になりたくありませんわ。
で、写真の予想を裏切らない仕上がりに、がっくり肩を落とし、すっかり老け込んでしまいましたわ。オバ心はズタボロですわ。
「老眼」、という「レンズ」を通して見ても、その「ババ具合」は一目瞭然。
カメラの思いやり進歩のためか、老眼のせいなのか、細かいシミやシワなどは皆目見えやしませんが、それでも「枯れ具合」だけは、はっきりくっきり写し出されておりましたわ。
こんなはずでは……ありました、のね。カメラは正直者ですわね。
「カメラのレンズ」と「私の老眼レンズ」、客観性があるのは、どちらでしょうか?
悔しいけれど、悲しいけれど、認めたくないけれど、カメラのレンズということになるのかしら。また、それが他人の目、世間の目というものかしらね。
もう少し前なら「こんなはずは、ない。あってたまるか」と愚かにも自分のレンズを信じ、たとえ半信半疑であっても、夢よもう一度、奇跡よ今一度、と、無駄金とは知りつつも、撮り直しにお金を使うこともしましたわ。ちなみに私は 3 回、友人は 4 回、撮り直したことがあるざます。
金は使えど、奇跡は起こらず、より落胆度は上がる、という踏んだり蹴ったりの結果と、あーあ、無駄金を使ってしまった、馬鹿なことをしたと後悔の念まで抱えながら重い足取りで家路についたざます。
けれども問題はそこからで、破り捨ててしまいたいほどのその写真は、当然ながら、これから他人の手に渡り、他人の目に晒される運命にあるのでございます。いったい、どれほどの数の高感度レンズに晒され続けねばならないのでしょうか。
それはイヤであります。できることなら提出拒否したいであります。が、それも叶わず、ババ顔の私が何人も並ぶシートを虚しく眺めるのでありました。
しかしそこには皆同一、どこも変わらない私が並んでいるわけですが、それでも、その中から、少しはマシと思える1人の私を決めるため、馬鹿げた行為、徒労とは知りつつも、時間をかけずにいられない往生際の悪い私、オバ心なのでございます。
証明写真の提出先の人間は、誰しも貼付されたババ顔なんかに興味ない、見ちゃいない。それはわかっておりますが、それでもオバ心としましては「見られたくない」のでございます。この先、何回、こんなことが繰り返されるのでしょうか。
こんなことを書いている私は、一体全体、いくつになったのかしら? 年相応に、他に考えるべきことがあるんじゃないの? と私の中の老婆心がしゃしゃり出て、
「今さら、『顔』なんか、首の上についていればいいじゃないか」と言いますの。
いつになったらそう達観できるようになるのでしょうか。──でも、でも、それも悲しいわ。悩めるうちが花なのよ。ねっ。そう思うことにするのよ、ネッ。
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