仕事に向かう駅で今年の夏ごろから週に1~3回ほど出会う同年代と思える女性がいる。私の乗る電車は朝のラッシュ時を過ぎた時間帯なのでプラットホームも電車もさほど混んではいない、だからよく見かける人の顔は覚えてしまう。
その人と同じ電車を待ち同じ車両に乗る。それが1週間1か月2か月3か月と続き、時に隣同士で座ればいつしか会えば会釈、簡単な挨拶、短い会話へと変わっていく。
その人がその電車に乗る理由は入院している回復の見込みのない夫への見舞いであり、次は自宅介護が待っているということだ。にもかかわらず悲壮感はなく、やれるだけやってみる、けれど、できない、となればホームへの転居も考えている。夫のことも心配だけれど、自分が倒れてしまったらそれこそどうしょうもないから、というその考えには、夫のいない私でも同年代として深く同意できる。
私は終点まで乗っていくが彼女は2つ目の駅で降りるので会話といっても短くいつも尻切れトンボで終わってしまうが、今まで聞いた話によると電車に乗る理由は夫の見舞い、そういうことらしい。で、今のところ私が一方的に聞き役に回っている。
でも、彼女の明るさ、感じの良さ、話しのテンポの良さ、気丈さ、そして身なりにも気遣いが感じられ、聞き役とはいっても出勤前の束の間の気分転換、退屈しのぎにもなっていた。
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ところが、その人を見かけなくなった、どうしたのかな、乗る電車の時間がかわったのか、ご主人に何かあったのかな、それとも彼女自身に何か起こったのか、と、一時は気にしたこともあったけれど所詮は行きずりの人、そのうち思い出すこともなくなった。
ところが先週、プラットホームに降りるとベンチに座り笑顔で手を振る人、彼女がいた。
私も思わず笑顔になって手を振る、「お久しぶりー」から始まってまた今まで同様、会話は途切れることなく進む。
その人の生活に変わりはなく、先日は「歳はとっても、お洒落心だけは失いたくないわよね」「まだ、もう少し頑張っていたいわよね」と話がまとまり、続きは今度また会ったときね、と言ってお互い笑顔で別れた。次はいつ会えるかわからないけれど再開できて楽しい気分になったことは間違いない。
同じ駅を利用しているけれど、お互いどの辺に住んでいるのかおおよそのことしか知らないし、名前さえ知らない。それでもなんとなく気が合う、話が弾む。
この遠くて薄い関係、これが気楽で気軽でいい案配、心地いい。この先も、この距離が縮まるとは思えない、またそれがいい。だから彼女も気楽に赤の他人である私に夫のことも話せるのだと思う。また、誰かに聞いてもらいたい、との思いも多少はあるのかもしれない。
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