『 捨てない生きかた 』 五木寛之 著 マガジンハウス新書
捨てなくていい ―― 何年も着ていない服、古い靴や鞄、本、小物…
愛着ある「ガラクタ」は人生の宝物である。
「捨てなくていい」そうだ、そうだ、待ってました! 思わずズボラは微笑んでしまうのでした。ってまだ読んでないけどね。
愛着ある「ガラクタ」もさすがにこの歳にもなってきますと、なんとかせねば、今だよ、今、この家籠り中に、この体力あるうちに、今、捨てなくていつ捨てられるの?
でも今年90歳を迎える五木寛之氏がそう仰るのなら、まぁ、いいじゃないか、死んだ後のことより今を楽しく……そうでもないけど、まっ、そういうことだ。
うーん、しかし最近、購入するモノにはそういう思い入れも愛着あるものも少なくなった、無きに等しいような、これはどうしたことか。
今はね、欲しいだけじゃ、買わないの、実用第一、必要でないとね。でも、服なんか実用的じゃなくたって、ワクワクするものがいっぱいあったほうが楽しいわ、が、寄る年波の現実は、あまりに厳しく寂しい。
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「買う気はあるのよ、お金もあるのよ」と冗談交じりにアンタはいつもそう言っていた。「冗談は顔だけにしてくれ」とワタシはいつもそう思っていた。
しかし現実は、だって似合うものがないんだもん、着て行くところもないんだもん、欲しいものがないんだもん、着られるものがないんだもん。
これはなんたって歳のせいよ。だけではないけれど、加齢は大きい、認めたくないけど。そうしていつの間にか着た切り婆さんになっているのだ。
服ならば、何と言っても手入れが簡単、家でざぶざぶ洗濯できる、くたびれたら悩まず廃棄できる、加齢とともにそっちに価値を置くようになった。
しかーし、たとえ高級品でなくても嫌いで手に入れたわけでなし、愛情をもって着ますわよ、着たおしますわよ。で、「キタオス」を変換したら「来た♂」「オスが来た」となった、どこに来た? どんなのが来た?
五木寛之、1932年生まれ、今年90歳、髪がふさふさ、風呂に入らず洗髪せず、これが良かったのでしょうか? でも足だけは別で、足の指にはそれぞれ一郎二郎三郎などと名前をつけ労いの言葉をかけながら、毎日? 日に数回? 丁寧に洗っていたそうです。
ほんとか? 私の記憶が正しければ、責任は持てない。しかし、色々なことが面倒になってきたものだ、これは歳のせいか性分か、それは両方であるから始末に悪い。
「着た切り婆さんガラクタに埋もれて」そうなる前に、気持ちはあるけど、体がね……。
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