先日、私の歩く姿を見ていた人に言われました。
杖をついていなければ、脚が悪いなんて思えない、普通の歩き方だけど……。
「ふつう」、そう言われて私はすっごく嬉しかった、マジで。
だってそういう努力をいつも、しているのですから。
今も私の右股関節は動かすたびに不気味な大きな音を立てております。
音がしないよう、刺激を与えないよう、痛みがでないよう、いつも、いつも、体と脚の動き、動かし方を考えています。
杖をついて歩く時も、右脚をかばうことによって、左脚、また他の部分に負担がかからないよう脚の運び方を常に考えて歩いています。
普通に歩くことができなかった私が、普通に歩いているように見える。それは今までの努力が報われた、そういうことでもあるからです。
まぁ、そんな大層なことではありませんが、それでも、普通、それが嬉しい。
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「普通」、普通に歩ける、普通に聞こえる、普通に見える、普通に話せる、これらも普通にあると、あることも忘れているんですね。
あまりに当たり前過ぎて。
内臓も一緒です。普通だったら、何の違和感も異変も存在そのものすら忘れている、それが普通。
普通がどれだけ有難いか。普通に仕事があって収入があって、普通に住む家があって、普通に食べられて、普通、普通、普通 ─────。
普通 ─────つまんないの。
そんな若さもありました。
しかし今は、その普通の生活を得るのが難しい。自分のこともさることながら年寄りはちょっと憂いています。
そして若返りたいとは思いませんが、普通に歩けたら、思いはどうしてもそこに。
しかし私には手術という選択肢がある。
「ある」、あるではないか、それにより普通が手に入るかもしれない。
そう考えると、恵まれているのかもしれません。
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