片岡鶴太郎氏の著書『老いては「好き」にしたがえ』、読んでませんが。
「おおおばちゃまはね」と映画評論家・小森和子の物まねをしていた頃を思い出します。あれから幾星霜、彼の変貌、激変ぶりに年寄りただただビックリ。
でも歳をとっても、好きなこと夢中になれる没頭できるものがあるって、幸せなことですね、しみじみつくづく。
姉は読書好きの完全インドア派。今日も私が図書館で借りてきた本に没頭中。
外に出て歩くのは月2回、それも行先はスーパーのみ。行きも帰りもタクシー使用、歩くのは店内のみ。
いくらなんでも歩かなすぎでしょ、90や100ならいざ知らず、まだ70代ですぜ。
とはいえ “ 馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない ”
そして、毎度ですが “ 異性はあなたを裏切るが、筋肉は裏切らない ” アーノルド・シュワルツェネッガー、
筋肉だけでなく骨もそうだ。だから “ 痛くてもあるかにゃいかんのよ ” 金田正一
(ちょっと、かなりしつこくて、スミマセン)
【スポンサーリンク】
脳が衰えたんじゃなく、脳が身体の衰えに合わせてくれるのである。
歩けなくなったら、外のことに思いが至らなくなるように。
これはボケなんかじゃない。脳の想定内の仕事である。脳はサボってなんかない。
私の体力(処理能力)が、暮らしを支えることができないくらい落ちてきたら、それが他人の世話になるときだ。そのときには、脳も、身体に合わせて、かなりぼんやりしてると思うけどね。
だから、年を重ねたら、自力で歩くこと、体力維持が大切なのである。
内臓が丈夫なうちに、先に体力が落ちると、人の世話になる時間が長くなる。
体力維持には、努力が要る。けど、「自然にぼんやりしてくる脳」を案じてもしかたない。これは、体力が落ちてきたことに付随する脳の自然の摂理だから。
というわけで、60過ぎたら、脳の心配より、体力の維持だ。
「身体を動かす、何か好きなこと」を少なくとも一つ、見つけておいてほしい。
内臓が丈夫なうちに、先に体力が落ちると、人の世話になる時間が長くなる。
これだわよ、私が1番心配し、恐怖を感じるのは。これは、自分自身のこともそうですが、姉ですよ、姉。
まさに、ここ、この部分、内臓が丈夫なうちに、先に体力が落ちる。
姉は私より、よく食べます。血液検査の結果も問題なし。脚の損傷、重症度は私の方が余程、重い。けど、私より歩けない、筋力不足で。
私が昔のように、足腰元気であれば、まかしときー、そんな気がしないでもない。が、今はそんな気力、脚力もなし。
どないすれば……どうなるのだろう……。
【スポンサーリンク】